【弁護士ストーリーズ】
第1回:齋藤健太郎弁護士:高校中退から慶應法学部、そして弁護士へ。「超健全な」回り道の美学
創知法律事務所の個性豊かな弁護士たちの素顔に迫るインタビュー企画「弁護士ストーリーズ」。
記念すべき第1回は、代表弁護士の藤本一郎が、札幌オフィスの齋藤健太郎弁護士にインタビューを敢行しました。
型破りな「高校中退」という経歴から、どのようにして難関・慶應義塾大学法学部に合格し、弁護士の道を志すに至ったのか。知られざる齋藤弁護士のヒストリーに迫ります。
| 齋藤健太郎弁護士 | 藤本一郎弁護士 |
![]() |
![]() |
始まりは「歩いてすぐ」の進学校と、尖っていた中学時代
藤本: さて、始まりました「創知の弁護士ヒストリー」。第一回目は、札幌オフィスの齋藤健太郎先生にお話を伺います。
齋藤先生のご経歴で、最初にパッと目を引くのが「高校中退」という経歴です。ここから詳しくお聞きしたいのですが、そもそも高校は地元の進学校に行かれたんですよね?
齋藤: そうですね、僕の地元エリアではトップクラスに位置する公立の進学校(札幌西高校)でした。実は、その高校が自宅からものすごく近くて、歩いてすぐの場所にあったんです(笑)。
藤本: それは羨ましい。でも、そこまで近い進学校に進んだのに、なぜ行かなくなってしまったんでしょう?
齋藤: 話は中学校時代に遡るんですが、当時の僕はとにかく内申点が極めて悪かったんです。なぜかというと、若気の至りで先生にことごとく反抗していたから(笑)。先生方からは相当嫌われていましたね。国語の成績が学年で5番目くらいだったのに、通知表で「2」をつけられたりして。
藤本: 学年5番で「2」ですか!?それはすごい時代ですね。
齋藤: 当時はちょっとコワモテな先生も多い地域で、なかなかにハードな環境でした。そんな中で先生方に目をつけられていたので、かなり風当たりが強かったんです。
それでもなんとかギリギリで西高校に進学できました。中学を卒業したときは「これでようやく抑圧された環境から解放されて、素敵な高校ライフが待っている!」と期待していたのですが……。
勉強時間ゼロ。「超健全な」中退生活
藤本: 解放されて、楽しい毎日が始まるはずだったと。
齋藤: そうなんです。でも、周りは全北海道から集まってきたような真面目な優等生ばかり。思春期特有の葛藤も重なって、だんだんと学校に行かなくなってしまいました。
そこからはもう、全く勉強をしなくなりましたね。結局、3年間ほとんど教科書を開きませんでした。
藤本: 実際に退学届を出したのはいつ頃なんですか?
齋藤: 親が「まあまあ、焦らずに」と、籍だけはずっと残して待ってくれていたんです。でも進級もしていないので、実質3年目くらいになって「そろそろ諦めて、次のステップに行こうか」ということで退学手続きをしました。
藤本: 学校に行かない間は、一体何をしていたんですか?
齋藤: それが、もの凄く健全に過ごしていたんですよ(笑)。
近所にある無料のテニスコートを見つけて、そこでのテニスにドはまりしまして。毎日朝5時に起きてコートに行くんです。そうすると、同じように朝早くから来ている暇な(失礼!)テニス愛好家のおじさん達がいて、一緒に毎日ダブルスをしてもらっていました。
近所の高校生たちが自転車で通学していくのを横目に、僕は朝から元気にテニスをしているという(笑)。
藤本: テニス熱心な、とても爽やかな青年ですね(笑)。
齋藤: そのうち、父親の仕事(町立病院の院長赴任)の都合で、両親が揃って北海道の南の方(木古内町)に引っ越すことになりまして。姉も東京の大学に進学していたので、なんと一軒家に僕一人が残されたんです。
完全なる自由を手に入れたので、僕の家は学校をドロップアウトした仲間たちのたまり場になりました。
ただ、たまり場といっても、タバコもしないしお酒も飲まない。みんなで集まって、アコースティックギターを弾いたり、お茶を飲んで語り合うだけ。
藤本: なんという健全さ。不良っぽさが一切ない、ただの音楽とテニスが好きな青年たちですね。
齋藤: そうなんです。「超健全なドロップアウト組」でしたね。
絶望の「ヨゼミ(代々木ゼミナール)事件」と、慶應法学部への転向
藤本: そこから、どうやって「大学に行こう」というモードに切り替わったんでしょうか?
齋藤: 18歳くらいになって、車の免許を取りたいなと思ったんです。さすがに親に「お金出して」とは言えないので、ガソリンスタンドで3ヶ月の短期アルバイトをして自分で資金を稼ぎました。ちなみにそのガソリンスタンドで、正社員の人たちと一緒に危険物取扱者(乙種4類)の試験を受けたら、なぜか僕だけ合格するという事件もありました(笑)。
藤本: 文字は読んでいなかったはずなのに、なぜか受かってしまう(文才の片鱗が見えますね)。
齋藤: (笑)。でも、バイトを探そうとしてアルバイト情報誌をめくると、どこもかしこも「高卒以上」と書いてあるんです。これには「うわ、高卒じゃないって意外ときついな」と現実を突きつけられました。
そこで、「大検(大学入学資格検定、現在の高認)」を取れば高卒と同等になるんじゃないか、と思いつきまして。
藤本: 普通の高校生が卒業を迎える、18歳の頃ですね。
齋藤: はい。大検を受けたらあっさりと全科目合格できまして、「あれ?これ、もしかして大学行けるんじゃないか?」と調子に乗り始めたのが、その年の10月頃でした。
そこから、どうすれば一番楽に、最短で大学に受かるかを調べまくりました。当時、2科目(英語・歴史)だけで受験できる慶應義塾大学の経済学部が受験生の間で人気だったんです。「これだ!2科目だけなら、今からでも間に合う!」と、10月から猛勉強を開始しました。
藤本: 順調なスタートに見えますが……?
齋藤: ここからが絶望の始まりです(笑)。
その年の12月30日、代々木ゼミナールで慶應経済の模試(慶應プレ)を受けに行きました。いざ試験問題を開いてみると、どう見ても「社会」の科目が世界史だけでなく、日本史も両方解かなければならない形式になっている。
「おかしい。そんなはずはない!」と冷や汗を流しながら調べたら……なんと、その年から受験科目が変更されていたんです。
藤本: 情報不足による大誤算!それは12月末としては致命的な絶望ですね。
齋藤: あの時の代ゼミの帰り道のショックは今でも覚えています。
でも、そこで諦めずに「今から受けられるところはどこだ!?」と必死に探したら、慶應の法学部なら「英語・歴史」に「小論文」を足せば受験できることが分かりました。「これしかない!」と法学部に急遽ターゲットを変更したんです。
司法書士の「午後3時テニス」に憧れて
藤本: それが法学部を選んだ理由だったんですね。しかし、その年はさすがに準備が間に合わなかった?
齋藤: はい、小論文が全く書けずにその年は不合格でした。何しろそれまで本を読んでいませんでしたから(笑)。
ただ、科目を絞れば翌年にはいけるという確信があったので、そこから1年浪人(年齢的には二浪目)して、次の年は慶應も早稲田も、受験した私立文系はすべて合格しました。
藤本: 素晴らしいですね!見事なリベンジです。その時点では、将来はどんなイメージを持っていたんですか?
齋藤: 実は、その頃、本屋で「なんとかになろうシリーズ」っていう本をよく立ち読みしていたのですが、「司法書士になろう」という本に心を奪われていまして(笑)。
年収は1000万円を超えそうで、「街の法律家」として「ぬるく」活躍できて、しかも「銀行の決済業務が終わる午後3時以降は、毎日テニスができるに違いない!」と思い込んでいたんです。「午後3時に仕事が終わって、毎日テニスができるなんて最高じゃないか!」と。
藤本: (爆笑)。不動産登記の決済が3時に終わっても、その後に申請手続きや事務作業があるんですけどね(笑)。でも、その「午後3時テニスライフ」を夢見て法学部へ進んだと。
(藤本&斎藤注:実際の司法書士の先生の仕事が「ぬるい」という訳ではないですよ!当時の斎藤がそう感じたというものです。)
齋藤: 実は僕の父親が、医師になる前に慶應の経済学部を出て商社で働いていた経歴がありまして。親としても慶應への思い入れが強かったようで、僕も慶應法学部への進学を決めました。
大学での「想定外」と、テニスへの情熱
藤本: 慶應法学部に入学してからは、夢見た「毎日テニスライフ」が始まったんですか?
齋藤: 入学して最初に入ったのが、ものすごい体育会系の厳しいテニスサークルでした。
合宿のとき、リーダー格の先輩が気合を入れて「練習始めるぞーー!!」と叫びながら、練習日程が書かれたホワイトボードをバキィッ!と素手で叩き割ったんですよ。それを見た瞬間に、「あ、ここにいたら僕の骨が折られる」と思ってすぐに辞めました(笑)。
藤本: 賢明な判断です(笑)。
齋藤: その後は「理工学部体育会テニス部」という、他学部でも入れる公認の部活に入りまして。そこで真剣にテニスに打ち込む日々を送ることになります。
起業家への憧れと、「専門性」を求めた選択
藤本: 厳しいサークルを退部したあとは、理工学部のテニス部で爽やかに打ち込んでいたと。では、そこからどうして司法試験の道へ進むことになったんですか?
齋藤: 実はテニス部を辞める口実として、「司法試験の勉強に専念するので……」と言ったのが最初のきっかけなんです(笑)。当時は周囲に辞めるための「あるある」な理由として使っただけで、本気でやる気はありませんでした。
藤本: なるほど、最初は建前だったんですね(笑)。では、当時は何を目指していたんですか?
齋藤: その頃はアントレプレナー(起業家)にものすごく憧れていました。「起業家になるためには」という本を熟読していましたし、大学の「インターネットビジネス研究会」というサークルにも入っていたんです。当時はまさにネットビジネスの黎明期で、みんながこぞって新しいビジネスを立ち上げようとしていた時代。僕もかなり興味を持って、色々な場所に顔を出していました。
藤本: 時代を先取りしようとしていたわけですね。
齋藤: ええ。ただ、色々と動いているうちに現実が見えてきて。「結局、自分にはプログラミングができるわけでもないし、一から今始めても何もないな」と。ビジネスをやるにしても、やっぱり自分だけの強い「専門性」がないと戦えないと痛感したんです。そこで、「今せっかく法学部にいるんだし、それならちょっと司法試験でもやってみるか」という、かなり軽い気持ちで方針転換をしました。それが大学3年生に上がる頃ですね。
遠距離恋愛の終わりと、人生の「狂い」
藤本: 3年生からのスタート。当時の旧司法試験の基準からすると、それほど遅いスタートという訳ではないですね。
齋藤: 動き出しは早かったんです。ところが……その頃の僕は、地元の札幌にいる女の子とずっと遠距離恋愛をしていまして。東京に来てからの2年間、彼女への義理を立てて、それはもう驚くほど禁欲的で真面目な東京生活を送っていたんです。
藤本: 誘惑の多い東京で、素晴らしい一途さです。
齋藤: ところが、僕より2年早く(二浪していないため)彼女が地方の学校の教員として就職したタイミングで、風向きが変わりました。「現地で他の男の人に好意を寄せられている」といった話を頻繁に聞かされるようになりまして……。遠く離れた東京のワンルームで、僕の精神はすっかりかき乱されてしまったんです(笑)。
藤本: それは受験勉強どころではないですね(笑)。
齋藤: そのモヤモヤの最中、テニスの大会で負けた悔しさもあって、勢いで頭を丸めて坊主頭にしたんです。そうしたら今度は彼女から「そんな姿は好きじゃない」と追い打ちをかけられ、結局お別れすることになりました。
そこからの反動がすごかった。失恋のショックからお酒にどっぷりハマってしまい、サークルの仲間たちと夜な夜な飲み明かす毎日。人生のペースが完全に狂ってしまいました(笑)。勉強は一応続けていたものの、生活の荒れっぷりは「押して知るべし」という状態でした。
入り口で跳ね返される辛さ。3度の択一落ちと札幌への帰郷
藤本: 当時は、受験者数が5万人にも達していた超難関の「旧司法試験」の時代ですよね。
齋藤: はい。僕は当時から「択一試験(短答式)」がとにかく苦手で。当時の択一はパズルのような細かい知識を問うものが多く、苦戦しました。結局、大学4年生の5月と、卒業した年の5月に本試験を受けたのですが、2回連続で択一に落ちてしまい、得意だと思っていた論文試験に進むことすらできませんでした。
周りの友達はどんどん次のステップへ進んでいくのに、自分はスタートラインにすら立たせてもらえない。就職が決まっているわけでもない。あの時期が精神的に一番きつかったですね。
藤本: 東京にいづらくなってしまった?
齋藤: そうなんです。東京にいるのが辛くなって、2回目の択一不合格の後、泣く泣く札幌の実家に戻りました。札幌でも予備校に通いながら浪人生活を続けたのですが、翌年、今度こそはと必死に勉強したにもかかわらず、またしても択一でスランプに陥り、3回目の不合格。「もうこのやり方ではダメだ」と、目の前が真っ暗になりました。
ロースクールとの出会いと、「余計な勉強」がもたらした本質
藤本: そこからどうやって這み上がったのですか?
齋藤: ちょうどその頃、新しい制度として「法科大学院(ロースクール)」ができるというニュースが飛び込んできたんです。「一からやり直すチャンスはこれしかない」と思い、地元である北海道大学のロースクール(既修者コース)への入学しました。3回目の択一不合格の翌年、2004年の春のことです。
藤本: 実際にロースクールに入ってみて、いかがでしたか?
齋藤: ロースクールに入学する前、1日の勉強時間は6時間までと決めていました。しかし、ロースクールでは、司法試験とは直接関係ない勉強もあるし、何より授業があるので、全て好きに勉強できる訳ではなく、圧倒的に勉強時間が長くなりました。ただ、僕にはこの環境がすごく合っていました。単に試験に受かるためのテクニックではなく、判例を深く調べたり、レポートを書いたりする「本質的な法律の勉強」が一気に増えたからです。
藤本: 受験勉強のための勉強ではなく、実務に繋がる勉強ですね。
齋藤: まさにそうです。藤本先生もよく仰っていますが、受験科目の細かい知識ばかりを効率よく詰め込もうとすると、思考の幅が狭くなって頭が働かなくなっていくんですよね。ロースクールで「一見、試験には遠回りに見える深い勉強」ができたことで、頭が完全にリフレッシュされました。この時に培った思考の体力が、間違いなく今の弁護士としての基盤になっています。
藤本: その後、ロースクール卒業年の「新司法試験」で見事一発合格を果たされたわけですね。新60期として。
齋藤: はい。最後の年(既習2年目)は旧試験を受けてみて、あと数点というところまでいっていたので、「このまま行けば新試験は絶対に受かる」という良いリハーサルができていました(当時は、ロースクール最終年で司法試験を受けることはできませんでした。)。ロースクールという制度ができていなければ、僕は今頃どうなっていたか分かりません。本当に感謝しています。
「居場所がない」という痛みがわかるからこそ
藤本: 齋藤先生は今、医療過誤弁護を中心に非常にシャープに活躍されていますが、お話を伺っていると、いわゆる「エリート街道」ではなく、かなり泥臭い回り道を経験されている。だからこそ、相談者の方々の「ダメな部分」や「苦しい状況」に、誰よりも深く寄り添えるのではないかと感じます。
齋藤: それは自分でも強く自覚しています。高校を中退して大検を取るまでの期間、そして司法試験に落ち続けた浪人時代。僕には「どこにも所属していない期間」が長くありました。
人間って、無意識のうちに学校や会社、肩書きや学歴といった「所属」に支えられているんですよね。それが一切なくなった瞬間、自分の位置づけが見えなくなって、驚くほど人間は弱くなってしまう。
藤本: 自宅のあった進学校を横目にテニスをしていた頃や、東京で浪人していた頃の安堵感のなさは、経験した人にしか分からないものがありますよね。
齋藤: だからこそ、苦労の末に慶應大学の合格通知をもらった瞬間の「これでやっと自分の所属を堂々と言える」という安堵感は、今でも忘れられません。
人は何かの所属を失ったり、社会のレールから外れそうになった時にどれほど脆くなるのか。その痛みが身に染みて分かっているからこそ、法的トラブルに巻き込まれて社会的・精神的に孤立してしまった依頼者の不安を、自分のこととして受け止められるのだと思います。
藤本: 素晴らしいお話をありがとうございました。洗練されたイメージの裏にある、齋藤先生の人間味あふれる魅力の原点が見えた気がします。齋藤先生には、別途、「齋藤健太郎法律事務所」を閉じてまで、「創知法律事務所」の設立に関わろうと思ったかについて、お聞きしてインタビュー記事にしますので、その時を楽しみにお待ち下さい!


